シネマティック・アーキテクチャ論

建築的映画

戦艦ポチョムキン(1925)セルゲイ・エイゼンシュテイン監督

映画をどのように見るか。映画誕生から100年以上を経た今では、シネマ・コンプレックスの台頭、ネット配信の普及で映画はより身近になった。そもそも映画は、新たな物語や、生き方のヒントを提示するだけのものだろうか。映画館で映画を見ることは、デートやファミリーの娯楽に過ぎないのだろうか。古くなった映画は、思い出を持たない人には、ただ古いだけでそれ以上見るべきものはないのだろうか。

ここで、もう一つの方法、「映画を建築的に見てみる」ことをお薦めしたい。建築について語っている、単に、そこで描かれる都市風景や、形態デザインでもいいし、なぜ、作家がそれらを選んだのかを考えながら、登場人物の生き方や行動、感情の動きと空間やファッション、セット美術や素材、小道具の使われ方との関係に思いを馳せたり、あるいは、建築を単一の建物でなく、都市の一部として見るなど...様々な切り口があるだろう。そういう見方をすれば、たとえ古い映画の中にも、そのような建築的な本質が見えてくるだろうし、それらは意外に身近な作品の中にあるのかもしれない。

例えば、前述のエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925)は、Youtubeにいくつも動画がUPされていて、彼のモンタージュ論を実証することになった「オデッサの階段」のシーンには、目に見えない流れや、編集による第三の意味と光学的幻想の創出など、ここに映画表現技法の本質がある。同じロシアの建築家たちによる構成主義と同時代でもあるので、その前衛性の影響は想像に難くない。

また、吉田喜重の一連の作品、とくに『煉獄エロイカ』(1970)における映像美、とりわけ画面の構成や構図、また、低予算であるが故にロケに頼らざるを得なかったことで、逆にそこで採り上げられた既存の建築空間とその表現方法は、未だ斬新で、ビジュアルから彼の作品を見て行くと、空間における視点の置き所を示唆したり、ビジュアルだけでも物語を語り得ることが分かり、建築デザインのコンポジションや空間構成、ナラティブ創出の参考にもなるのではないだろうか。

煉獄エロイカ(1970)吉田喜重監督 / すべては夜から生まれる(2002)甲斐田祐輔監督

同様に甲斐田祐輔監督の『すべては夜から生まれる』(2002)も、決して誰もが知る作品ではないが、描かれる対象が70年代であることで、夾雑物は削ぎ落とされ、光と闇だけで描かれたミニマルな空間だけが残る、都市や都市エレメントの質感や素材感の捉え方や表現、構成方法を示唆する映画といえるだろう。