シネマティック・アーキテクチャ論
ナラティブ(物語性)
欧米の国々のいくつかでは建築や都市デザインを異なるメディアでの表現すること、また異分野と関連づけて議論することで新たな発見をめざすことは積極的である。実際、建築にしても都市(ランドスケープ含む)デザインの一部、インテリアデザインにしても建築の一部として捉えるわけで(つまり、都市≧建築≧インテリア)、そもそもそれらの境界は希薄だ。とりわけ映像やアートを都市、建築と結びつけ論じる分析・研究書は多い。中でも、ハーヴァード大学のジュリアナ・ブルーノや、南カリフォルニア大学のアン・フリードバーグ、それにニューヨークの建築および先端科学芸術大学クーパー・ユニオンのアンソニー・ヴィドラーらによる(建築)空間と映像を対峙させる論考についての著書は良く知られている。
建築や都市デザインにとってみれば、その物理的永続性をともなう存在感と、映像という一過的で過ぎ去るメディアという真逆の存在であるところが、むしろ「動かないものに動きを与え」たり、関連付けのための考察が続けられてきた。 『THE EYES OF THE SKIN』という名著を著したフィンランド建築家・思想家のユハニ・パラスマは、あくまで部外者であるとしながらも、アンドレイ・タルコフスキー、ミケランジェロ・アントニオーニ、アルフレッド・ヒッチコック、それにスタンリー・キューブリックの作品についての建築的論考を『The Architecture of Image』という本で著したが、本書は建築家による映画空間の探求として、奥深く熟考されている。
また、文学においては、20世紀初頭から中期の「意識の流れ」を表現したヴァージニア・ウルフや、マルセル・プルーストの作品は明らかに文学の映像化への試みといえる。また60年代前半のフランスでは、ヌーヴォー・ロマンと呼ばれる実験的文学潮流の旗手アラン・ロブ=グリエは、言葉による極限までの建築空間表現を試み、、特に映画『去年マリエンバードで』(1961)は、原作小説の叙述と映像があたかも乖離しているような状況で第3の意味を述べるという手法がとられている。その後、サイバースペース、ヴァーチャル・リアリティなど80年代以降現れ、特に建築空間認識や表現に影響を与えた潮流は、60年代以降のSF小説(アーサー・C・クラーク、フィリップ・K・ディック、ウィリアム・ギブソンなど)やイタロ・カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』(1972)にその萌芽が認められる。
絵画やドローイングなど2次元空間に架空の都市や建築を展開させた人々について言うなら、18世紀イタリアの画家、建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720−78)は、その後の新古典主義建築に影響を与え、1960年代以降、アンビルト・アーキテクトのレベウス・ウッズ(1940−2012)や、フレデリック・キースラー(1890-1965)は前述のクーパー・ユニオンから、また前衛建築家集団アーキグラム(1761−70)は英国AAスクールという教育分野、それに雑誌などのメディアを中心に活動しながら現実の都市建築デザインの世界に影響を与えたと言えるだろう。
映画と建築・都市デザインの関係については、SF映画『ブレード・ランナー』(1982)や『惑星ソラリス』(1972)、『未来世紀ブラジル』(1985)などCG以前の手法で描かれた近未来都市像の独特の質感が、当時の都市デザインより一歩先んじた感がある。古くは1920年代のドイツ表現主義手法の潮流の中で制作されたGW・パブストの光と影による空間表現やローベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』(1920)、フリッツ・ラング監督『メトロポリス』の前衛芸術空間が後年の建築デザインに影響を与えている。一方、映画史においても最も重要な存在であるセルゲイ・エイゼンシュテインは、彼の唱えたモンタージュ論確立の礎には、彼が建築教育を受け、建築家をめざしていた、という背景が影響していて、実際、彼はル・コルビジェの信奉者だった。また、前述の映画『去年マリエンバードで』(1961)と同時期フランスのヌーヴェル・ヴァーグの潮流から生まれたクリス・マルケル監督『ラ・ジュテ』(1962)で描かれた記憶と意識の中で時空を越える試み、さらに、イタリアのミケランジェロ・アントニオーニによる都市エレメントや風景を用いて人物たちの深層心理を表出させる一連の作品は映像でありながら建築・都市空間の存在を強く印象づける。また、デヴィッド・リンチ監督の作品については、2014年に英国で彼の建築観について述べた「The Architecture of David Lynch」が出版され、著者リチャード・マーティンは発刊記念のレクチャをAAスクールで開催している。もちろん、CG以降の映画作品でも、表現の領域が拡張・進化することにより『マトリックス』(1999)のようなサイバー空間の発展と現代思想家ジャン・ボードリヤールのパラレル空間論に元づく知性により、一種の21世紀の現代における空間の再定義がなされていると言えよう。さらに、リュック・ベッソン監督『LUCY/ルーシー』(2014)や、『インセプション』(2010)、『インターステラー』(2014)を始めとする一連のクリストファー・ノーランの作品には、映像の中に、これまでの映画では描かれていない、もう一つの新たな空間像を探求しているように思われ、建築家も強く魅了されるだろう。さらに、ノーラン作品については(トッド・マガウアンによる)哲学的言及もなされ、その発想には見かけ以上の奥深さや考察の可能性を秘めていると言える。 哲学、思想について言うなら、スロベニアのスラヴォイ・ジジェクや、ドイツのマルクス・ガブリエルら哲学者たちが度々、映画を現代思想や構造主義、空間論の文脈で語っている。
ここでいう映画的建築とは、デザインだけでなく、文学的叙述性、また映像の視覚や心理的特性を備えたものも含んでいるが、ランドスケープ・デザインの分野における物語性は、洋の東西を問わず、古くから京都の修学院離宮や、ストウアヘッドなどの英国回遊式風景庭園で、新しいものではランドスケープ・アーキテクト、キャサリン・グスタフソンのデザインによるダイアナ妃の泉(ロンドン)において具現化されている。
また、具体的に映画との関連を色濃く感じることのできる建築作品は、古くはル・コルビジェとほぼ同時期に活躍したモダニズム建築家ロベール・マレ=ステヴァンの映画セットデザインへの関わりが知られているが、現代において映像との関連性が強く感じられる作品を発表してきた建築家としては、ベルナール・チュミ(シネグラムを始めとする映像に関する多くの記述<以下、括弧内は映画との関連>)、ナイジェル・コーツ(叙述: 著作に「Narrative Architecture」がある)、レム・コールハース(編集: コールハース自身、元々オランダで映画を勉強した後にAAスクールで建築を学んでいる)、ジャン・ヌーヴェル(光と影、回遊性)、スティーヴン・ホール(光と影、ヴェニスの映画館計画)、ヘルツォーク&ド・ムーロン(透過性、回遊性)、コープ・ヒンメルブラウ(一過性、回遊性: 2012年に釜山シネマセンターが完成)、他に光を強調する近年の建築家にアルベルト・カンポ・バエザやデヴィッド・アジャイなどが挙げられる。また、SANAAによるロレックス・ラーニングセンター(2010)は、映画監督ヴィム・ヴェンダースが『建物が話せるなら If Buildings Could Talk…』(2010)という詩を捧げショートフィルムを作成したほど映像的示唆に富む作品であるといえる。ヴェンダースは、さらにこの「話す建築」つまり、建築空間の有する物語性(ナラティブ)というアイディアに魅了され、長編ドキュメンタリー映画『もしも建物が話せたら Cathedrals of Culture』 (2014)として具現化した。
また、忘れてはならないのが、日本の建築家・鈴木了二であろう。映画的建築論を、観念的に捉えるのではなく、映画と建築の美学のアナロジーを突き詰めながら「素材感」など物質性に置換えて空間インスタレーションとして実践する試みや、16ミリ映画制作(フィルムの質感)、加えて建築的な映画についての数多い言及もあり、日本における映画的建築(建築的映画)にとっての唯一無二の存在といえる。優れた映画作家論を含め、『建築映画 マテリアル・サスペンス』(2013)を始めとするその著作の海外へ向けての翻訳化が望まれる。もちろん、映画への具体的な叙述は(『瓦礫の未来』を除いて)あまり多くはないが、磯崎新による現代思想・哲学や都市論、芸術論の建築や都市デザインへの関連づけの試みは建築を単なる建物から知の領域と結びつけデザイン思考を発展させる様々な可能性を示したと言える。また、槇文彦も自著『建築から都市を、都市から建築を考える』(2015)において、ジャック・タチの映画から、モダニズム建築のイメージを学び取ったと語っている。(重ねて言うが、世界的にも知名度の高い建築家たちの優れた論考のほとんどが、たとえ英訳もされていないのが残念でならない)
このように、他分野の要素を参照し、加え、横断することにより、映像と建築の間の大胆な融合を試みるCinématic Architectureの手法が、都市・建築デザインの分野にも新たな可能性を見いだせるのではないだろうか。
(緒方恵一)